こんにちは
こがみのりです(=゚ω゚)ノ
本日は、大雪警報の中
京都府綾部市にある、シロフクコーヒー焙煎所に
コーヒー焙煎に行ってきました
このブログは、「茶肆ゆにわ」店長、こがみのりのブログですが
わたしは、自家焙煎のコーヒースタンド
「シロフクコーヒー」の店長も兼任させていただいていますので
焙煎師として、コーヒー焙煎にも行くのです
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大雪警報発令中
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大雪警報・・・甘く見ていました( ̄▽ ̄;)
まさか、ここまで積もるとは(笑)
雪がしんしんと降り続く中
焙煎小屋の中で一人、コーヒーを焙煎する
シャン・シャン・シャン・シャン・・・
コーヒー豆が、焙煎機のドラムの中で転がる音がする
ときどき、パチパチと
豆が爆ぜる音がする
ゴーーーーーーーーー・・・と
ガスバーナーの音・・・
そして、自分の呼吸と
座っているキャタツが時々きしむ音・・・
どさーーーっと、屋根から雪が滑り落ちた音で
ふと・・・我に返る
そしてまた、静かに焙煎の音に耳を澄ます
鳥の声も
風の音も
道行く人の声も
何も聞こえない静寂な時間
雪が音を消していく
雪が全てを覆っていく
色も、音もない、静寂な世界
足跡の上にも雪が降り
そこに生きたものの形跡を消していく、雪の世界
ふと、遠くを見れば
山も雪に包まれている
山が深い眠りに入る
動物、虫、山川草木・・・
全ての生きとし生けるものを包み込んで
静かに、静かに、深い眠りにつく
雪は全てを白く包み込む
生きているモノも
命を終えたモノの亡骸も
分けることなく、全てを覆い隠していく
雪の下では、生と死が入り混じり
そこに境目はなく
生を終えたモノから、次の生へと
命と、記憶と、想いとが引き継がれ
新たな生命が、雪の下で胎動を始める
雪に覆われた世界は
静かで、まるでこの世とは思えないほどの静けさで
あの世と此の世の境目のような
そんな世界
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山に入り、一度死ぬという事
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以前、一人で山に入った時に
どんどん山奥に進むにつれ
鳥の声も、風の音も、草木がすれる音も
何も聞こえなくなって
気が付いたら、自分が呼吸する音だけが聞こえていて
まるで、静寂な死の世界へと
降りて行っているような錯覚を覚えた事がある
音のない世界へと降りていく事に
少し恐怖したのをよく覚えている
でも同時に
自分の「生」を確信もした
他に何も音が聞こえない世界で
自分の呼吸だけが聞こえる
「自分」という存在が、外界から切り離され
ただそこにある一つの存在として、自分を認識する
その状態で山頂へとたどり着き
そこから見た景色は
まるで、世界中全てがつながっていて
自分も、その一部としてつながっていて
自分という存在は、存在として確固としてあるのに
それでも世界の一部でしかなく
また、この広い世界は、私自身でもあるのだと
ただただ、それが腑に落ちて
これまでしがみついていた
「これが、私だ」というこだわりが
その瞬間、消えた
山の下には相変わらず
たくさんの音が入り乱れている
でも、一度、自分の音を認識したら
どんな音にまみれても
それは、自分の音ではないと認識することができるようになった
とはいえ、ずっと、その音にまみれていると
いつの間にやら、自分の音がわからなくなり
入り乱れる音の波にのまれてしまうのだが・・・
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なぜ山に入るのか
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白銀の雪の世界を見ていて
ふと、「私もあの山の中で静かに眠りたい」と
漠然と、そんな気持ちが湧いてきた
昔からお坊さんたちは、山に入って修行をした
なんでだろうか?
自分を追い込むためか?
世間の喧騒から逃れるためか
それはそうなんだと思うが
きっと、一度自分を殺すためなんだろうと思った
自分を殺すため・・・というと語弊があるが
世間において、いろんな音に飲まれて
一体何が自分の本当の音であるかわからなくなった時
自分以外の音をシャットアウトするために
山に入るのではないだろうか
例えば最澄は
仏道を志し、勉強に勉強を重ね
奈良の東大寺で具足戒を受けて、正式な僧侶となった
当時の仏教は、机の上での勉強が全てだった
自分自身の苦しみから逃れるため
目の前の人の苦しみを払うため
天皇の苦しみを癒すため
鎮護国家の為
ひたすらに勉強をしたが
当時の奈良仏教の世界は乱れに乱れていた
まるで酒池肉林のような堕落して
不協和音が鳴り響く世界において
最澄の澄んだ音はかき消されそうになった
自分自身でも、自分が発する音が消えていき
他の荒々しい音に飲み込まれそうになった時
最澄は、比叡山へ入った
他の音が届かない場所へ
あるがままの生を、あるがままの音を
自分自身の音が何であるかを再確認するために
喧騒の世界から静寂の世界へと分け入った
冬の比叡山は、まるで死の世界
深い雪の中
読経する自分の声に耳を傾ける
静かな夜に、自分の呼吸だけが聞こえてくる
そうして、これが自分の「音」だと思いだした時に
再び人と関わっても
その人の音に飲まれることなく
セッションをすることができるようになるのかもしれない
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最澄の願文
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せっかく人間に生まれ、仏の教えに出会うことができても
善い心を持ち続けることができなければ
地獄の薪になるより他はない
それなのに、今の私は十分に正しい修行ができていない
愚かで最低の人間である
だからこそ誰よりも精一杯努力をして
多くの人を救い導いて行くことができるような
強い自分にならなければならない
それまでは、この修行を決してやめることはできないのだ
これは、最澄が比叡山に入る時に
自身の決意を書き記した「願文」の一部です
最澄ほどの人であっても
自分自身の弱い部分と戦い続けた
世間の音から逃れて
自分の音を確固たるものにするために山に入った
山に入るという事は
世間の音にチューニングされてしまって
自分自身の音を忘れた状態の自分を
本来の音にチューニングし直すという作業
自分ではない自分を消す(殺す)という事なのだと思う
山に入り、にせものの自分を捨て
本来の自分がよみがえる場所
それが、「山」という場所であるのだとおもう
山は、生も死も
全てを受け入れ、包み込む
雪の世界も、それと同じ
毎年冬には雪が降る
冬に、春から秋にかけて積み重ねてきたモノを
リセットして、次の春にまた新たなスタートを切るために
雪が、全てを隠してくれるのだと思う
雪が降ったら、真っ白な世界の中で
生まれ変わろう
古い自分の思い込みや、捕らわれの一切を捨てて
全てを手放して
新たな自分に生まれ変わる
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除夜の鐘
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毎年、年末のお約束は
「ゆく年くる年」を見ながら除夜の鐘をきく・・・
という方も多いのかもしれませんが
除夜の鐘って、一体何のためにつくんだろう・・・と考えた時に
除夜の鐘は108回つきますが
▲比叡山の鐘撞堂▲
この108回というのは、人の煩悩の数と言われています
つまり、この一年、生きていくうちに
自分の中に生まれた雑音(煩悩)を
鐘というシンプルな単音で、本来の自分の音にチューニングしていくために
108回、鐘を突くのだと思います
そして、突き終わったころには
鐘の振動(バイブレーション)によって
世間の音で乱れた自分の音が
本来の自分の音にチューニングされているのです
除夜の鐘を騒音だという方もおられるようですが
本来の自分に生まれ変わるために
とても大切な、昔から受け継がれてきた行事ですので
是非、こたつでみかんを食べながら
鐘のバイブレーションに耳を傾けていただきたいなと思います
生まれ変わるための除夜の鐘。
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『 神様に愛される 一杯の「お茶」習慣 』
茶人 こがみのり / 自由国民社
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