2026年1月29日のブログの続き。。。
「幸せになりたい」という美しく聞こえる願いが
なぜ人を「取り替え可能なパーツ(クズ)」へと貶めてしまうのか。
私たちが当たり前だと思っている「自己防衛」や
「キャリアアップ」といった営みが、
いかにして私たちの魂を空洞化させているのか。
そのメカニズムと、このパラドックス(逆説)の深淵を、解説します。
「社会の奴隷」になるためのOS=言語

社会という巨大なシステムが存続するためには
人間が「予測可能で、制御しやすい存在」である必要があります。
そのために、社会は私たちに
「言葉」というOSをインストールしました。
言葉を持つと、人は「自分はこういう人間だ」という
セルフストーリー(自己物語)を描き始めます。
すると、その物語を維持するために
「より高いポジション」
「より安定した年収」
「より良い評判」
といった、社会が用意した「価値のハシゴ」を登らざるを得なくなります。
「自分を守るため」に必死にハシゴを登っているつもりでも、
実は社会というシステムにとって
「使い勝手の良い、替えのきく部品」として最適化されているだけ。
これが宮台先生の言う「取り替え可能なクズ」
という表現の本質ではないかと思いました。
「虚無」はスペックの高さに比例する

現代人は、資格、人脈、容姿といった
「スペック」を上げることで幸せになろうとします。
しかし、スペックを上げれば上げるほど、
実は「虚無」が深まっていきます。
なぜなら、スペックとは
「他者との比較」でしか成り立たない数値だからです。
「自分という実態」を強固に守ろうとすればするほど
自分と世界との間に分厚い壁ができ、孤立が深まります。
どれだけハイスペックな城を築いても
その城の中にいるのは
「傷つくのを恐れて震えている、孤独な自分」だけ。
その空虚さは、何を手に入れても埋まることはありません。
修行とは「自分という実態」の解体

では、どうすればこのループから抜け出せるのか。
そこで必要になるのが、宮田先生の言う「修行」です。
修行とは、何かを得ることではなく
「自分という実態がある」という錯覚を
削ぎ落としていく作業です。
仏教で言う「縁起(えんぎ)」とは、
自分というものは単独で存在しているのではなく、
無数の関係性(前提)の中で、
たまたま今、
現象として生じているだけだという視点です。
子供が夢中になって走り回って遊んでいるとき
「自分が走っている」のではなく
ただ「走るという現象」に没入している。
前回の記事に書いていたチンパンジーの例え
チンパンジーは、手足が切断されるような大きな事故に遭っても、決して「昔はよかった」と絶望したりしません。彼らは常に、今動かせる体で、今できることを最大化して生きています。
「昔の自分」に執着せず
ただ「今の体」を使い切っている。
この「三昧(サマーディ)」の状態
つまり自分と世界の境界線が消える瞬間にダイブすること。
これには、自分を守ろうとする本能に抗うほどの強い
「意志」と「努力」が必要なのです。
「諦める」ことで開かれる「世界そのもの」

「諦める」という言葉の語源は
仏教用語の「明らかに極める(明らめる)」にあります。
「自分を守ること」を諦めるとは、
絶望することではありません。
「守るべき自分なんて、もともとどこにもいなかった」という
真実を明らかにすることです。
自分を守るための「盾」を捨て
自己防衛のための「言葉」を捨てたとき
あなたは初めて
社会という小さな檻から解放されます。
そのとき、あなたの意識は「個」を超え
「世界そのもの」「宇宙の働きそのもの」へと戻っていきます。
そこには、「幸せになりたい」という問いすら存在しません。
なぜなら、あなた自身が「幸せ」や「不幸せ」といった二元論を超えた、
巨大な生命のうねりそのものになっているからです。
とどのつまり・・・

どうやったらシアワセになれるんだろう・・・
これを考えているうちは
本当のシアワセは見つかりません
社会(一部の人間)にとって
有用な人間を作るための言葉により
「わたし」という幻想に囚われて
他者との比較をして
常に人よりも優位なところに
自分を置こうとすればするほど
社会構造の支配下になり
現代社会の価値観の折に囚われ
自分らしさを見失い
「やりたくもない事」が「やるべきこと」だと思い込んで
「やりたいこと探し」をているうちに
人生はあっという間に終わってしまう・・・
自分探しをしている時は
目の前にいるご縁ある人には目もくれず
必死で「自分(自我)」という幻想を追いかけているので
孤独は募るばかりです
幻想の世界から抜け出して
本当の仲間を探すなら
ぜひ、変わったお茶屋でお茶を飲みませんか?
お茶の中にある宇宙をみつけてください


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