こんにちは
こがみのりです(=゚ω゚)ノ
先日、只今作成中の
映画「美味しいごはん」の中で使われる予定の
インタビュー収録に参加させていただきました
そこで、日本の食文化についてお話しさせていただきました
和食と茶の関係
日本の食文化は「茶」の文化と非常にかかわりが深いのです
日本の食文化「和食」と言えば
「懐石料理」を連想される方も多いと思います
懐石料理は日本人の「食」の根底にある
日本人的な精神を表現しているのです
(懐石料理なら何でもOKではないのですが)
和食は2013年に無形文化遺産に登録されました
無形文化遺産の対象なるものは
各国の音楽、舞踏、祭り、儀式のほかに
インドのヨーガ、日本の和紙など伝統習慣や、工芸など
多岐にわたります
和食という日本の文化は
後世に残すべきものとして認められたものなのですが
その、和食の文化の根底には
「茶の湯」の文化があるのです
懐石料理とはもともと、茶席でお茶を出す前に出される
簡単な食事の事をいいました
茶道の創始者である千利休が茶道を確立していく中で
茶を美味しくいただくために創りだしたおもてなしの「形」です
この料理は、日本古来の
一汁三菜(いちじゅうさんさい)という食法を基本にした料理でしたが
そこから発展して、料亭などで出される
懐石料理という今の和食の形を生みました
なので、今の和食の懐石料理と
質素な茶事での懐石料理を分けるために
茶事での料理を「茶懐石」と言います
和食の代表的な形(懐石料理)を産み出した
茶の湯の心の根底には
「禅の精神」がありました
「茶禅一味」という言葉があるように
「茶」と「禅」は、切っても切れぬ縁
もともと「茶」を中国から持ち帰ったのは日本のお坊さん達ですし
茶の文化は禅寺によって守られてきたといっても過言ではありません
その「禅」の修行で最も大切にしているものが
「食」なのです
「食」と言うか
「食」との向き合い方が非常に大切なのです
曹洞宗の開祖である道元禅師は
若い頃、宋(中国)へ仏教を学びに行った時に受けた衝撃を
「典座教訓(てんぞきょうくん)」にしたためました
「典座(てんぞ)」とは禅宗寺院の役職の一つで
禅宗寺院で修行僧の食事、仏や祖師への供膳を司ります
食事係・・・というと
普通は、新入りが担当する雑務のような役割で
軽く見られがちだと思います
しかし、禅宗においては「典座」は
修行経験が深く信任のある僧が任命されるものでした
この事を、道元禅師は書き記したのですが・・・
道元と典座僧の出会い
宋の天童寺に留学中だった道元は
ある夏の日、中庭で寺の老典座がシイタケを干しているのを見ました
老人は眉は白く腰は曲がっていたのですが
炎天下に竹の杖をつき、汗だくになり
一生懸命働いていました
道元は気の毒に思って地下より
老僧に年齢を聞きました
老僧『68歳だ』
道元『なぜ、下働きの者にやらせないのですか』
老僧『他の者とやらは、私自身ではない』
道元『なぜ、今のような炎天の日中にされるのです』
老僧『今のほか、いつを待てと言うのか』
道元は黙ってはその場を離れ
廊下を歩きながら、典座職の重要さを考えたのだそうです
また道元が「宋(中国)」への上陸許可を待って
港の船の中にいた時のことです
ある老僧が食材の買入れに港にやってきました
道元が老僧を船室に招いて茶を勧め
話を聞いていましたが
老僧『私は、阿育王寺の典座です
故郷を出て四十年、歳も六十を越えましたが
これからまた20キロほど歩いて
食事の用意に寺まで帰らねばならぬので
そろそろおいとまします』
道元『飯の用意など誰かがやるでしょう
何か差し上げますので、ゆっくりしていかれては』
老僧『それは駄目です
外泊許可を貰っていないし、典座は老人にもできる修行
こればかりは、他人には譲れません』
道元『あなたほどの高僧がそのお年で
なぜ忙しく働いてばかりいて
坐禅したり先人の教えを学ばないのですか?
それでいったい何のいいことがありましょう』
老僧は笑ってこう言いました
『外国からきたあなたは、どうやら何もわかっていないようだ』
これを聞いた道元は、大いに驚き、また己を恥じました
老僧『もう日も暮れます。行かねばならぬ』
と立ち上がり、寺へと帰っていきました
道元は『私が多少とも修行のことを知るようになったのは
実にこの老典座の恩によるのである』と書き残しました
禅の真髄
なぜ道元がこのように驚いたのかというと
当時の日本には、「日常禅」という考え方が
まだ浸透しきっていなかったので
知識を学んだり、座禅を組むことが
「修行」であると思われていました
そのため、道元もその修業の時間を割くことになる
食事を作ることを含む「雑務」は、修行の妨げだと考えていたのです
だから、この老僧との出会いは道元にとって
驚き以外の何物でもなかったのです
日常で実践してこその「禅」
座学だけで、頭で考えたところで
実践しなければ、真の学びにはならないという事です
典座は庫裏(お寺の台所)で調理をしますが
庫裏には火の神様(仏様)が祭られています
その火の神様と向き合いながら
己の心を静めて、ただただ調理する
自分の心が静まっていなければ
それはそのまま、料理に現れます
すると、その料理を食べる人にも
その心の状態が映ってしまい
その人の修行の妨げになってしまいます
自分の心の平安を求めて山にこもって
座禅を組んで、勉強を重ねることも必要な時期はあるのでしょうが
どんなに心が揺れている状態でも
目の前の役割のために心を空しうして臨めば
三昧の境地に到達することができる
己を満たすための行動ではなく
目の前の人に心から喜んでもらえる行動
これが、おもてなしの根本です
その禅的な修行精神の上に茶があり
その茶から派生した日本の食文化には
ただ、腹を満たすための食事ではなく
心を満たすための食事という生き方、食べ方がうつっているのです
そのあたりの事をお話しする
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